<宇野維正(映画ジャーナリスト)コメント>
観客は途中から祈るような気持ちで、少女ちひろの幸せを願うだろう。
その願いが叶うのか、裏切られるのか、最後の一瞬までまったく予測がつかない。
「星の子」は、そんな映画の罪深さと面白さが凝縮した作品だ。
<恩田泰子(読売新聞記者)コメント>
日本人の多くは成長した「愛菜ちゃん」の姿をどこかで勝手に予想しながら、この映画を見始めるはずだ。
でも、どうだろう。彼女はスクリーンに登場した瞬間から、ちひろとしてそこに立っていて、観客が芦田愛菜の現在に思いをめぐらせるよりも前にすっと歩き出して、観客をひっぱっていってしまう。自意識とか野心とかいったものを感じさせない、その不思議な軽さは、今村夏子の原作小説の語り口、そして、ちひろという女の子のありように自然に沿う。
<川島小鳥(写真家)コメント>
傷つかないように、毎朝鎧を着て学校や家族、そして自分自身と戦っていたあの頃。選べないものだからこそ苦しくて、逃げたくても逃げ切れないもの。だからこそ、ひとつひとつ経験し、自分で腑に落としていくことは、なんだかかけがえがなくて美しいことなんだと。胸が詰まりました。
<鴻巣友季子(翻訳家・エッセイスト)コメント>
信じる心に真贋はあるのだろうか。見えること、見えないこと、その間に境はあるのだろうか。 原作に描かれた、淡い覚醒を前にゆれうごくヒロインのまなざしが、スクリーンにみごとに再現されていて感動しました。
<佐々木敦(文筆家)コメント>
率直に言えば、最初に芦田愛菜の起用を知った時には
「ちーちゃんのイメージとちょっと違う」と思ってしまった。
小説「星の子」のヒロインは、もう少しこう、どこかぼんやりした感じの少女を思い浮かべていたのだ。
だが映画を観てゆくうちに、芦田の真っ直ぐな演技と繊細な表情の変化によって、
言葉だけの存在だった「ちーちゃん」が生身の実在になっていくのを、
感嘆とともに見守ることになった。名演である。
映画を観終わってしまったら、もう私には芦田愛菜以外の「ちーちゃん」は考えられなくなっていた。
<サンドウィッチマン・富澤たけし(お笑い芸人)コメント>
芦田愛菜ちゃんとは一緒に番組をやらせて頂いていますが、この映画には女優、芦田愛菜「さん」がいました。
人間にはいくつもの感情があり、そのベクトルの中を時に傾きつつ、引っ張りあうバランスの中で「自分」を形成し、保っている生き物だと思います。
引っ張られる先にあるのは自分の置かれている状況や、家族、友達、先生といった人間関係、信じている物。
バランスが欠けると片方にふっ飛んでいってしまう。
宇宙における星同士のように。
何かを「諦めること」で人は大人になる。
何かを「諦めないこと」で人は成長する。
ちょっと何言ってんのかわからなくなりました…。
<サンドウィッチマン・伊達みきお(お笑い芸人)コメント>
愛菜ちゃんとは、バラエティで共演させて頂いてますが、それとはまた違う…彼女の生業「女優・芦田愛菜」の真髄を見ました。
娘をもつ親としての目線だったり、大友康平さん演じる伯父さん目線…更に、懐かしい中学時代の友達関係や教室の雰囲気等、様々な感情で深く映画を観る事が出来ました。
個人的には、授業中…イケメン教師の似顔絵を書いていて叱られるシーンで、ちひろの友達が「似顔絵は先生じゃない……」と助けてくれた場面が印象的でした。
そしてすぐに、なべちゃんがちひろの席に来てくれる…決して、ちひろはひとりにならない環境なのが安心しました。
両親から、とても愛されて育ったちひろ。
思春期で、好きな人や親友が出来る時期。
当たり前だったのが、あれ?少し違うのかな?…と客観的に見る事が出来る時期。
色々分かっていながらも、でも「信じる」というか「それで幸せならいいじゃない」…という気持ちが入り交じっているのが見えた。
愛菜ちゃんが号泣するシーンや、恋愛要素の強い会話をするシーンも印象的でした。
あと、全力で走るシーン。
愛菜ちゃん…なかなか速いんだなぁと(笑)。
いや…「愛菜ちゃん」じゃなくて「愛菜さん」って言わないといけませんね。
永瀬さんや原田さんの惹き付ける素晴らしさに加え、新音さんの堂々とした魅力もありました。
素敵な映画でした。